平林寺内 松平家墓所修復工事
石山石材店が継続的に行っている平林寺の松平家の修復工事の様子です。石山石材店は平成8年5月より平林寺内に有る松平家由縁の墓所の修復工事を行っています。もし、平林寺を訪れる機会が有りましたら覗いて見て下さい。
山門前まず、平林寺は埼玉県新座市野火止3-1-1に、約13万坪の境内地を有する金鳳山平林寺として存在しています。直指見性禅師石室善玖和尚の開山(1387年)で、臨済宗妙心寺の末寺です。
平林寺はもともと武蔵国騎西郡渋江郷金重村に開創されたが、寛文3年(1663年)に川越城主松平信綱の発願によって(この前年信綱死去)、寺基を現在地に移して今日に及んだもので、草創以来現在まで600余年を経過しているお寺です。
また、現在は全国各地より雲水(修行僧)が参集して、座禅修行に励む専門道場でも有名です。以上が平林寺の概略ですが、詳しく知りたい方は「平林寺史」なる辞書のように分厚い本が春秋社より発刊されていますので、そちらをご覧下さい。
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奥庭より見た書院
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本堂
平林寺修復工事ドキュメント(現場メモ)
現場に携わってまず感心させられるのは石材一つ一つの加工の巧みさ。こちらも一つ一つすべての部材の寸法を計測し(2人で2〜3日はかかる)全体の寸法を図面にする。120平米もある大規模な墓所で、左右の誤差は僅か1〜2分(5・位)である。今から300年以上も昔に、当然すべて手仕事による加工が現在の機械に頼った加工に勝る正確さである。
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完成予想図
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工事墓所の平面図
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左後方から前部分を見たところ
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左側部より後ろ部分を見たところ
また、今と違って石材は皆、大ぶりで重い。(セメントの無い時代、石材自体の重さがある程度なくてはならなかった為だろう)。主役であるところの石碑の中台は1.5・を越える。現場設置のミニクレーン1台では持ち上がらない。このミニクレーン2台での共吊り作業となる。それでも片一方のクレーンに重さが掛かり過ぎた時、そのクレーンの足を支えるシャフトが折れてしまうというアクシデントもあった。2台のクレーンで何とか石材を浮かし、石材の下に歩み板をながし、鉄のころ棒を数本入れて少しずつ転がしてゆく。このようにして何とか石材を動かして再び設置する事が出来る。
しかし、これ程の重量物を当時の職人たちは大変な思いで動かした事だろう。大木を利用して二又を組んでの作業であったろうが、この石材を現場まで運んで来るだけでも、恐ろしい重労働だったと思う。何人工での作業だったのだろうか。
また、当時の施行法について現場でも色々と想像する時がある。墓地の周りにそっくり堀を掘って、水を貯めて木箱の様なものを浮かべ水平を見たのではないか等、当時は現在の小型水平器のたぐいは無かった様なので、この推理は大げさとは言えないと思う。それにしてもどの部材も1人で抱え上げられる物がないだけに大変だったろう。それを手作業で水平・垂直に修めるのだからすごい事だ。こちらはクレーンを使ってもなかなか石材は言うことを聞いてくれない。
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基礎工事 グリガラ及び鉄筋
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基礎コンクリート工事
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根石(間知石の石積)内側に
コンクリートで補強
この墓地の作り方は、根石(基礎)にあたる部分は間知石の石積、その上に「均し石」そしてその上が「駒寄せ」となる。駒寄せ部分の柱は一つの墓所で150本以上にも及ぶ。門柱や四隅の大柱、役物(門の笠石等・目立つ部分)の加工・仕上げは最高の仕事である。しかし、小柱(間柱)は、おそらく見習いの弟子達も含めて総手で作られたのだろう。かね(角の垂直)の悪い物やかなば(面取り)の通りが曲がった物などいささか雑な仕事も目に付く。
こんな石材を目にすると、当時の加工上の様子が彷彿とさせられる。また、一つ一つの石材(部材)に当時の職人達の意気込みと言うか、エネルギーを感じる。
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修復工事完了正面門より見る
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左前方より見たところ(今回は欠品の部材が
多く修復にあたり小柱を新規に作成した)
我々も大変な仕事ではあるが一カ所の復元を終える度にその達成感たるや格別なものがある。時代を超えて一流の職人達の仕事にふれる機会を得られたことは石屋冥利に尽きると言えようか。
2000.1.12 平林寺復元工事責任者 石山雅巳メモ